花背、広河原、久多の松上げをご紹介してきました。
今回の「雲ヶ畑の松上げ(8月24日)」は、これまでの3カ所の松上げとは、歴史も様式も異なります。
平安時代前期(840年頃)の皇族であった惟喬親王(これたかしんのう)は朝廷の政争に敗れて、京都の山奥である雲ヶ畑に隠遁(いんとん)しました。
当時、雲ヶ畑の村人たちは、失意の親王を慰めようと、村の山の上2カ所に「文字」を描いた松明(松明を)立ち上げたことが、松上げの始まりと言われています。
詳細は、次のサイトをご覧ください。
雲ヶ畑保勝会のページ
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/area/hoshokai/hoshokai_2.html
さて、私Takataroは、8月24日、バイクで雲ヶ畑に向かいました。
京都市街地から、脇道に入って山の谷間の一本道をひたすら走りました。
すれ違う車もなく、人里もない道です。
1時間も走ったように思った頃、ポツリポツリと人家が見えるようになりました。
京都市北区の雲ヶ畑出張所という建物を見つけ、ようやく雲ヶ畑についたことがわかりました。
雲ヶ畑の松上げは、2カ所であると調べてわかっていたのですが、そもそも現地に祭りの気配がない!
そして、人の気配がない!
てっきり、祭りの日を間違えたか、あるいは祭りが消滅したのかもと思いました。
バイクでうろうろ走っていると、畑におじいさんがいるのを発見。
雲ヶ畑の松上げは今日あるのかと聞いたところ、近くの福蔵院に行きなさいとのこと。胸をなでおろしました。
福蔵院に行ってみると、これまた祭りの気配どころか、人の気配がない。
おじいさんの言葉を信じて夜まで待つことに。
何気なく、近くの山の上をみると、何か人工的なものが見えました。
多分、あれが松上げの場所だろうとわかりました。
そして、ようやく夜が更けて、雲ヶ畑の人々が三々五々、福蔵院に集まり始めました。
寺の雨戸が開け放たれ、電灯の中に浮かぶ人たち。
何か、懐かしい不思議な気分。
私Takataroが生まれた、鹿児島の田舎の家を思い出させる風景。
そして、午後8時、真っ暗な山に明かりが見えたと思うと、瞬く間に大きな炎になりました。
出谷町の松上げです。
その文字の下の山道を、松明を持った青年たちが駆け下りてきます。
松明が、福蔵院に到着すると、その松明の火で焚き火を起こします。
そして、その火でスルメを炙(あぶ)り、浴衣を着た若い女性たちがコップ酒とともに皆にふるまいます。
私Takataroは、他に観光客らしき人がいなかったこともあり、この焚き火の輪の中に入ることができませんでした。
撮影に必死だったということもありますが、久多の松上げの時と同じ気持ち、すなわち家族の中に他人が入ってはいけないという思いでした。
それくらい、そこに集まっていた人たちは全員が知り合いで老若男女が和やかだったのです。
そうしているうちに、2カ所めの中畑町の松上げが点火されました。
雲ヶ畑を後にして。真っ暗な道を京都市街に向かって走り続けました。
しばらく走っているうちに、ついさっき観た光景が、夢の中の出来事であったように思えはじめたのです。
バイクを止めて、知り合いのプロフォトグラファーに携帯で電話し、何か夢の中にいるような気分がすることを伝えました。
そのフォトグラファーから、翌年電話がかかってきました。
雲ヶ畑の松上げの帰りだが、去年、Takataroが電話してきた意味がわかった。今、同じ思いを感じているという連絡でした。
雲ヶ畑の場所
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